、雲行きがあやしいよ、そろそろ戻ろう」


わがままをいって、連れて来てもらった10月の海岸。そこら中にちらばる花火の残骸と、今はもう看板をおろした海の家がひっそりとたたずみ、カタンカタン、としまりの悪い安物の鉄製の扉が海風にふかれ、わびしい音をたてている。目の前にひろがる暗い色の海は沈黙したまま、波だけを静かに足元によせてくる。先ほどまで2人で飲んでいたホットココアの缶をゴミ箱に放り込んで、砂の斜面を滑り降りながら、精市がこちらにもどってきた。


「結局泳げなかったな、夏の間」

「うん、残念だね」

「ああ、の水着姿をみそびれた」

「みたかったの?」

「とってもね」


そういって顔をくしゃっ、として笑った精市につられて、あたしも笑った。心の中で「ごめんね、精市」と小さくつぶやいて...........精市はなんとも思わないだろうけれど、本当は手術の傷跡が残る精市の体を、なんにも知らない人にはみせたくなかった、そして、あたし自身もそれを白昼でみれる自信がなかったから、海への誘いも、はぐらかしっぱなしだったこの夏。 今でも、うすく刻まれた赤い痕を指先でなぞるだけで、一瞬の運命の悪戯で、もしかしたらここにいなかったかもしれない精市を思って、涙ぐんでしまう。それを公衆の面前でやらかして、大泣きしてしまったら、それこそ水着どころじゃなくなる。

でも今、あたしの横に立つ精市は冷たい海風に吹かれても首をすくめず、なんともなしに髪を風になびかせている。 すべてを取り戻した、強靭な肉体とその精神。

最近、精市は少し楽しそうだ。

全国大会で負けてから、以前よりもずっと楽しそうに練習をする。今まで精市にとって当然だった世界が当然でなくなって、超えるべき壁が自分以外の誰かになり、能力も志しも拮抗できる相手がいるという喜びがあるのだろう。 ボールがコート上へ叩き付けられる度に、大きく次の世界へと、精市が跳躍する。その音をききながら、まぶしげに目をつぶって、あたしはもう彼の日常が、毎日見舞いに通った病室でもなく、手術前に抱きしめた時に少し震えた肩でもなく、そうして、初めて精市の傷を触って泣いたあたしを、やさしく抱いたあの夜でもなく、すべては“彼と倒すべき相手のいるコート上”へ戻っていった事を痛感する。また、また、そうやってくり返される王者立海の幸村精市としての日常ー

断った罪滅ぼしのつもりで自分から言い出した10月の海行きは、心を楽しくさせるよりも、遠くにみえる水平線がけっして手が届かないものだと思わせられるばかりだった。荒れだした黒い海が、それすらもかき消そうとする。


「おいで、帰ろう?」

「............うん」


手をつないで、砂に足を取られるあたしを支えて、精市が先へゆく。

その時ー
背後でひときわ高く、まるで鳴き声のように波が岩壁に打ちつけられた。
その恐ろしく澄んだ声がいう。

                   
“あきらめなさい、神の子供をのぞむのは”

“すべてをここにおいていって......................楽になりなさい”


肩をすくませたあたしにいう。



ふっ、と気が遠くなるような目眩に襲われてふらついた、砂の斜面が足下から崩れ落ちる。その瞬間、とても強い力で肩を抱かれた。みあげると優しくまっすぐあたしを見つめる精市の双眸、しっかりしろと言うように強く、強く、あたしの肩をつかむ腕、ふわっと香った精市の甘い髪の匂いに、やっと呼吸ができたような気がした。


そうだ、迷わなくてもいい

今は、まだ

この甘い呼吸ができるうちはー


精市に抱きしめられながら、あたしは背後をふりかえって、先ほどの声と、あたしの中の空虚なあたし自身を黙らせるために、いまだ騒ぎ続ける海を睨んだ。









091012